イスラメイ

 

 

 難しい任務ではなかった。暗礁宙域で座礁した貨物船の救助。航宙管理局のレンジャー部隊から二小隊が出動し、哲夫の仕事はベテラン操者のバックアップだった。

 訓練でげっぷが出るほど繰り返したシークエンスをなぞるだけだと思った。ここ数回の出動はノーミスできていることも自信となり、レンジャーの仕事にも慣れ始めていた。

 だからだろうか。作戦区域に高速で接近するデブリの存在に、寸時、気付くのが遅れた。

 それでも、哲夫のデブリへの対処の仕方は、まず間違いなかったと言ってよい。直径五メートル程の漂流物の軌道を計算し、作戦区域に到達する前に対物ミサイルで粉々に破砕する。

急な事態だったが軌道計算は正確だった。トリガーを引く指にも迷いはなかった。レンジャー部隊であるならば、どんな不測の事態にも冷静に対応できるようでなければ話にならない。

不意の災禍を未然に回避し、哲夫が溜飲を下げ、目線を少しモニターから外した次の瞬間、モニターの隅に米粒ほどの大きさで写っていたはずのデブリの残骸が、いつの間にか目の前に迫っていた。

そのデブリが重力制御機構の搭載された宇宙船のエンジンブロックで、まだ完全に機能を停止されぬまま不法投棄されていたそれが、ミサイルが当たった直後に再起動、暴走し、予想外の大爆発を起こしたということを知ったのは後になってからだったが、何にしても気付いた時には、最早残骸は、回避不可能なまでに接近してしまっていた。弾丸より質量も速度もある物体と正面からぶつかるとどうなるか……。

そこから先は、全ての出来事がスローモーションに思えた。

デブリの残骸がまさに直撃しようという刹那、真横からの衝撃。態勢を崩しながらもといた場所を見ると、デブリの直撃を腹に喰らい、力なく回転しながら虚空を漂うGIGSの姿が見えた。

それが自分の隊の小隊長の機体だと気づくのに少しかかり、さらにそれが自分を庇ったからだということを理解する頃には、全てが終わっていた。

憶えているのは、強烈な耳鳴りと眩暈。体中の血液から熱が失われ、無線の声が何を言っているのか一つとして理解できなかった。衝突の勢いのまま漂流しかけている隊長の機体を助けにいこうなどとは考えることすらできず、ただただ必死に操縦桿を握り締め、自分の体を支えるので精いっぱいだった。

幸いにして、隊長の命に別条はなかった。だが、下半身は麻痺し、右足は切断となれば、例えリハビリの末に機能を取り戻し、高性能な義足を着けたとしても、GIGS操者としての人生は終わったも同然だった。

 

「お前のせいじゃない」

 面会が許された後真っ先に病室を訪れた哲夫に、隊長は言った。

「覚悟はな、していたよ。レンジャーに配属されたときから……いや、操者として管理局に入ったときから、か。事故で死んだ同僚もいたし、まあ、特に俺の世代は戦争に行ったからな。命があるだけ、俺はまだましだ」   

隊長は哲夫を責めなかった。ベッドに横たわり身動きも満足に取れない中、事故の前と変わらない笑顔を向けていた。

「誰かが悪かったわけじゃない。強いて言えば不法投棄なんてした奴らだが、それを責めても糞の役にも立たない。事故は起こってしまった。その事実は変わらない。『自分を責めるな』と言ってもお前は自分を責めるだろう。それは……まあ、いい。好きにしろ。だが、そのせいで仕事のクオリティを落とすようなことがあってはならない。切り替えろ」

 あまつさえ、隊長はベッドサイドでうなだれるだけの哲夫を諭しさえした。しかしその時の哲夫には何一つ、隊長に応えられるだけの言葉などなかった。何を言っても虚しく響くだけのような気がした。

 

 あの時、もうほんの少しだけ早くデブリの接近に気付いてさえいれば。ミサイルの着弾位置にもう少し気を遣ってさえいれば。着弾後の対象確認をもう少し丁寧にやってさえいれば……。気付けば、頭に浮かぶのはそんなことばかりだった。

 しかし、隊長の言葉を無碍にすることも、哲夫には出来なかった。事故の後、哲夫はそれまで以上に、訓練にも任務にも必死で取り組んだ。「上司を再起不能にしておいて……」などと陰口を叩く者もいたが、意に介してはいられなかった。

もう二度とあんな思いをするのは御免だと思った。だから、どんな些細なミスも見逃さないように神経を張り巡らせた。慎重に慎重を重ね、仕事のクオリティが落ちないように……。哲夫はそうすることで、隊長の言葉に応えようとしていた。応えた「つもり」になっていた。

 

 新しく哲夫の上司となった隊長は、そんな哲夫に冷淡だった。哲夫とは最初からそりが合わず、何度か意見があわないということがあって、哲夫が任務でミスをした。暫くすると、哲夫に管材部への移動命令が下った。

「暫くGIGSから離れて落ち着いた方がいい」

 とは、その上司の言い分だったが、あの事故の責任者をこのまま部隊に置いておいては示しがつかないから、というのが妥当な見方だと誰もが噂していた。

 

          *         *

 

 かつてニューメキシコ州と呼ばれた北アメリカ大陸の南の端、砂漠地帯の真ん中にぽつんとあるカールスバッドは、冬でもそう寒くはならない。ただ、砂漠地帯は昼と夜で寒暖の差が激しい。太陽が沈み始めると途端に冷え込みが酷くなり、日中少しでも汗をかいたりしていると、どんなに厚着をしても震えが止まらなくなる。

 しかし、例え手すりを掴む手がどんなに震えても、哲夫は宿舎の屋上から離れる気にはならなかった。

 太陽は地平線に隠れ、遠くに見える渓谷から徐々に、群青色の夕闇が広がりつつあった。朝焼けの時と変わらない光景のはずだったが、今は何故か、それが恐ろしいほどに美しく見えた。

「いやぁ、美しい黄昏だ。これ見れただけでもここに来てよかったと思うよね」

 黙って白い息を吐き出し、ただ景色を眺めている哲夫の隣で、シモンが言った。シモンの左頬には青い痣が出来ていて、それが痛むのか、笑おうとするたびに少し顔を引きつらせていた。

「……昔、西部劇でこんな風景を見たことあるんですよ。親が好きで。放浪のガンマンがこういう荒野の、岩場とかを見つけて、そこで焚火起こして……で、フライパンで分厚いベーコンを焼くんですよね。それがえらい旨そうで……」

「へぇ……それは……」

 何を喋っているのだろう、俺は。ただ、目の前に広がる光景を眺めていると、何かを喋らずにはいられなくなっていた。夕闇は次第に濃さを増し、空を見上げると、満点の星空が広がっている。

「食事が終わって、ガンマンが煙草を吹かしていると、遠くでコヨーテが鳴いて……」

「コヨーテ……って、今もいるのかな? この間絶滅したのって何だっけ?」

「この間っていつですか?」

「あー、一〇……何年か前?」

「ああ……まあ、わかんないですけど……」

 というか、コヨーテって何、狼? そう言って、シモンは遠くを見ながら右頬を撫でる。右手がずきりと痛んだ。シモンは変わらない。あれだけのことがあったのに何一つ。それだけに、何気ない会話の一つ一つが、哲夫には堪えた。

 

 昼間、レスターとの「模擬戦」の後、哲夫は勢い込んでクロード中佐に話を付けに行った。クロードは管制室から移動中で、哲夫が息を切らせて追いつくと、クロードは供の者を先に行かせると、廊下の真ん中で哲夫との「面会」に臨んだ。

哲夫とてレスターの言うことを完全に信用したわけではない。「そんなことはない」と言って欲しかった。例えどんなに疑わしくても、クロードがそう言えば、哲夫がここにいる理由は担保されるのだから。だが……。

「そうだよ。出来レースだよ」

 哲夫が問うや否や、開口一番クロードは言い放った。あくまでも余裕の態度を崩さず、当然のように。何だ、そんなことか、とでも言うような口ぶりだった。

「で?」

「で……って……」

「だから何?」

「なっ!」

 哲夫は絶句した。

「朝、シモン君も言っていたけど、君がやることは一つだけだよ。たとえ背景に何があろうともね」

「でっ……でもっ! 不正でしょう、こんなの!」

「そうだけど、大丈夫だよ。誰も損しないようになってるから」

「そういう問題じゃない!」

 哲夫が声を荒げると、クロードは一つ溜息をつくと、言った。

「だったらどうしたいんだよ」

「ど、どう……」

 相変わらず微笑は湛えたままだが、眼は笑っていなかった。童顔に見えていたクロードの眼が急に鋭さを帯び、哲夫は射すくめられるように言葉が出なくなった。

「……まったく、正義感が強いのかプライドが高いのか知らないけどさぁ、君の言動が今後どういう影響を及ぼすか、少しは考えてもらいたいな。どうせ今度のこともレスター大尉の言うことを鵜呑みにしたんだろうけどさ」

 決して鵜呑みにしたわけではない。むしろ信じたかった。だからクロードに話を聞きに来たのだ。だがそれはあまりにもあっけなく裏切られた。クロードはむしろ、「信じていたのか」くらいには言いそうだった。

「というか、少し考えればわかりそうなものじゃないか。僕が言うのもなんだけど違和感だらけなんだよ、今回のトライアルは。本当に何も疑問を持たなかったのかい?」

「それは、確かにおかしなところはあるとおもっていたけど、でも、それでも折角もらったGIGSの仕事だったから……」

「なら文句言わずにやるんだな」

「……」

「……中途半端だなぁ、君は。だからレンジャー部隊をクビになるんだ」

 クロードの顔から笑みが消え、その眼はもはや鋭いを越えて酷薄とも言えるものだった。

「君はあれを懲罰人事だと思っているようだけど、君が左遷されたのはごく単純な理由さ。無能だったからだよ。君がレンジャー部隊の任務に耐えうるだけの能力を持っていないと判断されたから切られた。それだけだ」

 クロードのその台詞が、耳鳴りのように哲夫の頭を締め付けた。息が荒くなる。眼は泳ぎ、手が震えた。

「自分の頭で考えようともしないで不確かな情報に踊らされ、文句は言えるがそれでどうすべきかのビジョンはない。それならそれで愚直に仕事を続けるモチベーションでもあればいいものを、中途半端に強いプライドがそれも許さない。おまけにGIGSの操縦もあんなにへっぴり腰じゃあデスク仕事の方がお似合いってもんだ。いや、デスク仕事だって勤まらないよ。……フィリップ・コーナーも馬鹿だったね。君みたいな

無能と自分の操者生命をトレードしたんだから……」

 その瞬間、哲夫の血が一斉に沸いた。耳鳴りが頭を掻きまわし、理性は容易に振り切られた。哲夫は右手を硬く握りしめクロードの顔面めがけて拳を振り上げていた。

 だが、その一撃がクロードに命中することはなかった。

 拳に肉と骨がぶつかる嫌な感触がして我に返ると、そこには左の頬で哲夫の拳を受け止めるシモンの姿があった。

「ぶぐっ!」

 などと情けない声を上げながら、勢いよく廊下の壁に激突する。その時頭を強かに打ちつけたのか、頭を抱えたまま荒い息を吐きながらのたうちまわっている。

「だ、大丈夫ですか!」

「ふっ……あひっ……ふうふう」

 言葉にならないほど痛いらしい。さらに言えば。哲夫が殴った顔よりも頭頂部の方がダメージは大きかったようだ。

「すいません! シモンさん、こんなつもりじゃあ……」

「はあ……い、いいから、おち、落ち着いて……」

 涙目になり息を整えながら、シモンはそれでも哲夫を案じていた。

 突然クロードが声を上げて笑いだした。皮肉めいた響きはなく、いかにも辛抱たまらんといった笑いだった。

「はっ、はははっ! いやぁ……ふふ、情けないなぁ、野口君。いくら思い通りにならないからって仕事仲間に八つ当たりなんて、底がしれるぞ……ふふふ、ああ笑った。じゃ、僕はもう行くから。シモン君に感謝しときなよ」

 そう言ってクロードは悠然と去って行った。シモンはようやく落ち着いてきたようで、壁にもたれて今度は頬の方を撫でている。

「……ああ、痛かった……でもそんなに面白かった?」

 中佐の方が面白かったよね。そんなことを言いながら、シモンは笑う。恨みがましいところなどまるでなく、気にしてさえいないようだった。

 その笑い顔が、哲夫の替わりに重傷を負ったフィリップ・コーナーに重なり、哲夫はまた、口をつぐむしかなくなってしまうのだった。

 

 

 陽は完全に落ちた。夜空には眩暈がするほどたくさんの星が輝いている。あの映画のガンマンも、こんな夜にはただただ夜空を見上げていたのだろうか。大気のない宇宙空間では目にしない星の「瞬き」。一瞬のうちに明滅を繰り返す電灯のような星の姿を、「儚い」と思ったのは初めてのような気がした。

「……俺、恰好悪いですよね……」

「……どうだろう。そういうのはよくわかんない。気にし過ぎじゃないの?」

「でも……」

「まあ、何というか、逆に考えればさ、これで肩の荷が下りたとも言えるんじゃないの。誰にも期待されてないんだから」

「……」

「あとはもう、気楽だよね。気を遣う必要もないし。プレッシャーもないし」

 こういうことをさらりと言ってのけるからこの男は困る。いつもの哲夫ならこんなことを言われれば「人の気も知らないで」と憤るところだが、シモンの右頬に痣をこさえたのが他ならぬ自分であるとなれば、罪悪感の方が勝って何も言えなくなってしまう。

 いや、それ以前に、哲夫の中の怒りそれ自体が急速に萎んでいるのがわかるのだ。シモンを殴った瞬間から、妙に落ち着いてしまっている自分に気づいた。まるでこの男に、腹の中に溜めていたものを全て吸い取られてしまったように。

「……腰が引けてるって、言われたんですよ」

「何が?」

 二人の人間に言われた。自分にその自覚はなかったが、唯一の拠り所をボロクソにされれば気にもなる。

「シモンから見て、どうでした? 俺の……操縦は」

「ああ……そうだな、うーん……君はもうちょっと周りを観た方がいいかもね」

「……観る?」

「うん。特に対戦相手をね」

「相手を……あの……具体的には……?」

「具体的に? えー、まあその、何だ………えー……」

 シモンはひとしきり唸ったあと、頭を掻きながら言った。

「ま、技術的なことはレスター大尉あたりに聞くといいかもね。あの人、育成に興味あるみたいだったし、多分色々教えてくれるよ」

「……レスター大尉と何か喋ったんですか?」

「ああ、君との模擬戦を譲ってくれって言われたんで、今日は俺は模擬戦の予定ないし、別に好きにしていいんじゃない、って」

 そう言えばそうだった。この男が軽々しく無責任なことを言わなければこんなに面倒なことには……いや、今は言うまい。

「その時にちょろっと話したんだけどね。何か、軍の現状を憂えてたみたいよ。今のままじゃ本物の操者が育たないとか、何とか。意外と良識派なんだねぇ」

「良識派は、命令違反して強引に模擬戦とかしないと思いますよ」

「かもね。でもあの人から学べることは多いと思うよ。実際、巧いし」

「『巧い』ってどういうふうにですか? 俺とどう違います?」

「いや、普通に、動作の一つ一つが。あと、迷いがないのと、何よりも立ち位置」

「立ち位置……ですか?」

「そう、最初の位置取り。そこから、強引に突撃しているように見えるけど、巧いこと相手を誘導してるんだよね。君とどう違うか……って言われてもなぁ。何しろ一瞬だったから」

 ま、それは後で大尉に確かめてみたら。シモンはそう言って欠伸を一つすると、手すりにもたれ掛かってずっと遠くを見ている。

空港でマーシャンズの解説をした時と同じく、シモンの言っていることに確証はないが、おそらくそうなのだろうという気がした。何より、哲夫がレスターに完膚なきまでにやられ倒れ伏していたとき、苛烈さの中に何故か感じた、醒めているような冷たさ。あれは冷徹に、俺の動きを操っていたということなのか。

 それにしても、対戦した俺が全然何もわかっていないというのに、この男の理解度は何なのだろう。ああ、そう言えばこの男がGIGSに乗っているところを一度も見ていないじゃないか。この男は実際のところ、どこまで出来るのだ。

「あ! 今なんか聞こえた! コヨーテかも!」

 突然、シモンが叫んだ。

「えぇ? 聞こえたっていっても、ここ基地だし。GIGSの駆動音とかじゃないですか?」

「向こうの谷の方から聞こえたんだよ!」

「……そんなの聞こえないですよ。風の音でしょう。だいたいシモンさんコヨーテの声聞いたことないんじゃないんですか?」

「そりゃあ、まあ、そうだけど……」

 シモンと話をしていると、少し落ち着いてきた。そして思い知ったのは、現実のままならなさだ。例え理不尽な出来レースの末、惨めに敗北することがわかっていたとしても、帰ることは許されない。公務員としてのモラル云々の問題ではなく、純粋に、宇宙港までの飛行機の便が無いからだ。流石に僻地。調べてみると、次の便は一週間後だった。

もっともカールスバッドから最寄りの飛行場までは車で移動しなければならないが、この基地の人間の誰も、仕事を残して勝手に帰宅しようとする負け犬なんぞに車を貸してはくれないだろう。軍隊だって暇じゃあないのだ。

 要するに、逃げられないのだ。どんなに惨めでも、どんなに恥ずかしくても、役割を果たさなければ手前勝手に舞台から降りることは許されないし、そもそも降りられないようになっている。中佐は、それをわかっていてあそこまでずけずけと言ってのけたのだ。

「さて、そろそろ行こうか。腹も減ってきたし、何より寒い」

「そうですね」

 感傷に浸るのは、もういいだろう。そう言われた気がした。それはそうだ。思春期の少年じゃあるまいし、いい大人が、仕事をしに来ているのだ。いつまでも落ち込んでいるなんて、気持ちが悪い。

「切り替えろ」

 病室でフィリップ隊長に言われた言葉の意味が、今やっと、何となくだがわかったような気がした。

「何食べようかなぁ。今朝は失敗したから、今度は日本食にしようかなぁ」

「そう言えば、昼食べてないですもんね。お腹も空くはずです」

「ねぇ。ノグチ君、お奨めの日本食ある?」

「僕はうどんが好きですけど、食堂のメニューにありますかね」

「うどん……ヌードルね。わかった、探してみよう。……あ、日本食と言えば、『ナットウ』ってどうなの? おいしいの?」

「ああ、一時期ブームになりましたよね。ありゃあ食べ物じゃないです」

「まずいの?」

「あれを好きって言う人の気が知れないですよ。臭いがもう食べ物の臭いじゃないっていうか」

「へぇ、そこまで言われるとちょっと食べたくなってくるねぇ」

「まあ、止めはしませんけど……」

 シモンと取りとめのない話をしながら屋上を後にする。ドアをくぐる前、渓谷から荒野を吹き抜ける風の音を聞いた。コヨーテの物悲しい声とは似ても似つかぬ、血に餓え、荒れ狂う獣の咆哮が、哲夫の背中を震わせた。

 

        *        *

 

 遥か蒼穹から獲物を狙う。視界は澄みわたり、地上にいる目標の姿を逃すことはない。荒野を流れる砂塵の粒子、地面に写る雲の影、赤茶けた荒れ野に映える仙人掌の緑……。猛禽が見ているのは、こんな光景なのだろうか。

 得も言われぬ万能感がクロエを満たしていた。あたかもこの荒野全土を支配しているような、心地の良い静謐と高揚。それが自制を必要とする類のものであることには気付きながらも、クロエは今だけ、この感覚に全てを委ねてしまおうと思っていた。

「では、行きます」

『了解、シチュエーション3、「強襲戦」、開始します』

 唾で少し喉を湿らせる。モニターの映像に、目標の機体の姿を確認すると、獲物を狙う鷹さながらに、クロエは静かに、しかし獰猛に、地表に向けて滑空を開始した。

 目標は中量GIGS三機。それぞれが地上に設置された遮蔽物に身を隠し、〈ゼロ〉の襲撃を待ち構えている。敵拠点に対する単独での強襲戦を想定した訓練である。

 地面に対してほぼ直角に急降下したクロエは、地表付近でスラスターを返し、そのまま舐めるように地上すれすれを滑空する。

 遮蔽物の影から放たれる弾丸を細かく左右に機体を振ってかわし、一度地面に足を着いて方向転換、同時にスラスターを全開にすると、難なく標的への接近に成功した。

 狙いをつける間も、遮蔽物の裏に回り込む隙も与えない。〈ゼロ〉の軌道を眼で追い切れてすらいない標的には一瞥もくれず、クロエは操縦桿のトリガーを二度引いた。〈ゼロ〉の手にしていたハンドガンから発射されたペイント弾が、標的の頭部と胴体にオレンジ色の花を咲かせる。

 まずは一機。

 一機目の「撃墜」を横眼で確認するのに止めたクロエは、一呼吸も置かずに次の標的に狙いを定める。

 スラスターはフル稼働のまま、今度は地面を蹴って上昇。中空で四本のスラスターを広げ、ひらひらと舞いながら敵機の照準を撹乱する。そうかと思えば次の瞬間にはスラスターを束ねて全力アタック。標的に肉薄すると、一機目と同じパターンで呆気なく沈めてしまう。

 これであと一機。

 残った一機は、前の二機と同じでは埒が開かないと思ったのか、自ら遮蔽物を捨てて機体を晒し、逆に〈ゼロ〉への接近を試みていた。

 確かに、クロエにしてみれば、相手が遮蔽物に隠れての射撃戦に拘り続ける限り、固定砲台を相手にするのとさして変わらない。射線は一定で読みやすく、死角にも入りやすいので容易く接近を許してしまうのだ。

 そう考えるならば、この操者の判断は間違っているとはいえない。広いスペースを使って、動き回りながら中距離での撃ち合いなら、まだ可能性はあるだろう。敵機の持ったライフルは、〈ゼロ〉のハンドガンより射程は長い。

 隙を探るように標的の周りを廻りながら、クロエはほくそ笑んでいた。そうだろう。そうこなくちゃ、面白くない。実際、最後に残った標的はなかなかに腕が良く、放たれる弾丸は正確に〈ゼロ〉に迫ってきている。

(けど――)

 相手はまだ、見誤っている。

 数発目の弾丸を急加速でかわすと、そのまま機首を標的に向ける。フットペダルを全力で踏み込み、一直線に標的に迫る。

 願ったり叶ったりとばかりに、敵機も引き金を引く。だが、クロエは普通ならかわしようもない至近距離で射軸をずらし、それでも照準を付け直し再度引き金を引く標的の頭上を跳躍していた。

 放たれた弾丸は無人の荒野に向けて虚しく流れ、クロエは空中でひねりを加えると標的の真後ろに着地していた。そして、標的の後頭部とバックパックにペイント弾を浴びせる。

 これで終わり。

 一瞬の出来事。〈ゼロ〉の真骨頂である狂気じみた急激な加減速、最大出力から強引に制動を掛けて敵機に猛進し、近接戦に持ち込んでしまう戦法を、クロエは既にものにしつつあった。

(決まった……!)

 クロエはささやかにガッツポーズをすると、敢闘を讃えるように〈ゼロ〉の操縦桿を撫でた。〈ゼロ〉は乗れば乗るほどいい機体だった。「人機一体」という言葉はこういうことなのか。クロエのイメージ通りの動きを〈ゼロ〉は完璧に体現してみせる。〈ゼロ〉に乗っている瞬間、クロエは完全に自由なのだと思った。

 出来ればもう少し浸っていたかったのだが、その心地よい静寂は無線から響いた叫び声によって脆くも破られた。

『ブラーヴォー!』

 けたたましい叫び声とそれに続く拍手の音。聞き違えようもないその声は、まさしく父、クロード・エヴァンスのものだった。

『いやぁ素晴らしい! 見ました? ねぇ、今の、あれ、私の娘なんですよ』

『知ってます、中佐』

 これだ。公私混同も甚だしい。周りは父のはしゃぎ様に引いているか、慣れている者は冷淡に受け流すか、少し要領のよいものは調子を合せるか。しかしいずれにしても、うんざりさせていることには変わりない。

『痺れるねぇ。〈ランU〉三機を瞬殺だよ、瞬殺。天才だな、我が娘ながら』

 この男は昔からこうなのだ。娘のこととなるともう見境がなくなる。小さい頃、ヴァイオリンのコンクールに出た時もこうだった。舞台の上で多くの衆目に晒されながら、身内からの過剰な喝采を浴びるいたたまれなさを、この男はわかっているのだろうか。また、クロエがヴァイオリンを辞めた遠くない原因となったことも。

『少尉、聞こえてますか?』

 やかましいクロードの歓声もどこ吹く風と、極めて冷淡な通信を送ってくるのは、シキシマ重工開発部開発室長にして〈ゼロ〉の開発主任、フランチェスカ・ルジェッリ女史。

 栗色のウェーブヘアも艶やかな才女は、明らかに十人並みからは遠く離れた美貌を持ちながらも、目下のところGIGSの研究開発にしか興味がない。

 乏しい感情表現と狭隘な対人関係は、類稀なる才能だけを武器に問題にしてこなかったらしい。クロエも、初対面の彼女には面喰った。艶やかな髪はボサボサに荒れ果て、化粧はおざなりもいいところ。本来は二重瞼も眩しいはずの眼の下には大きなくまが浮かんでいる。それで全く気にすることなく淡々と自己紹介するのだから、クロードの馬鹿騒ぎも意に介するはずがなかった。

「はい。聞こえています」

『今のタイムが三十二秒一八。ロスらしいロスはありませんが、強いて言えば二十秒前後のステップによる方向転換、あれがあそこで出る意味がよくわかりません。次のミッションではスラスター出力比の変化の方を重視してください。あと一、二秒縮むと思います』

「わかりました」

『それから、発砲数が少ないです。高速域での射撃精度のデータも欲しいのでそちらも意識してみてください。あと、中佐、うるさいので少し黙ってくれませんか』

 無線の向こうからは、まだ周りの人間に娘の自慢話を続けているクロードの声が聞こえていたが、フランチェスカはあくまでも事務的にぴしりと言い放つ。声に怒気が含まれているわけでもなく、ただ純粋に邪魔だと思ったから遮っただけだろう。苛立ちや焦燥も、彼女には無縁だった。

 冷淡で歯に衣着せぬ物言いも、初対面でこそ相手をいらつかせるが、彼女のGIGSに対する真摯にも程がある態度を知れば、やむを得ないという気にもなってくる。こういう人間の手によればこそ、〈ゼロ〉というモンスターマシンは生まれたのだ。

 フランチェスカとの付き合いは長くない。クロエが彼女に会ったのは半月ほど前、トライアル参加の辞令を受けた次の日だった。いつもの訓練の後声を掛けられた。徹夜明けのやつれた姿のまま、我が子を預けることになるテスト操者を、居ても立ってもいられず確かめに来たのだと言った。彼女の眼は、その下に作った大きなくまとは対照的に、爛々とした輝きを湛えていた。

彼女こそ本物の「天才」だとクロエは思う。フランチェスカには迷いがない。自分を偽ることもない。自分の望むことが明確にあり、しかもそれが、世界からもそう望まれているからだ。

自分の望みと世界の要請が一致するとき、人間は最大限の力を発揮する。そういう意味で彼女は、真に恵まれた人間であり、彼女が真っ直ぐにGIGS開発に取り組む姿に、クロエは羨望を憶えさえした。

 フランチェスカと比べて、自分はどうだ。今の仕事だって嫌いではないが、心の底からやりたかったものではない。そもそも心の底から渇望できることが、自分にはないのではないか。だから周りからの雑音が気になるのか。

 無線の向こうでは、クロードの声が収まっていた。フランチェスカに言われたからでもないだろうが、しかし誰か適当な部下を捕まえてネチネチと自慢話をしている可能性はある。

『少尉、聞こえていますか? 帰還してください。すぐに再調整をしますよ』

「あ、はい!」

 しまった。父に気を取られ、集中が切れていた。コクピットに座っている間は常在戦地と心得よ。直属の上官の言葉を反芻しながら、クロエは〈ゼロ〉の戦闘モードを解除し、基地へ機首を向ける。

 自分は中途半端なのだろうか。父の問題でないのはわかる。だが、先の見えた日常に漠然とした不安を抱いて入隊したはずの軍でも、確とした居場所を見出せていないような気がしてしまう。それともこれは、子供じみた欲求に過ぎないのだろうか。だからどうしようもなく中途半端な自分を抱えているように感じてしまうのだろうか。

レスター大尉だけではない。「七光り」という揶揄が自分の周りに渦を巻いていることも知っている。クロエが若くして出世したことへの、単なる妬みだけではない。確かに、特別扱いされてはいるのだ。

嫉妬だけなら、慣れたものだと受け流せるが、それが事実なだけに雑音と知りつつ消し去ることができない。

(私はお前に逃げているのかもしれない。ね、どう思う、ゼロ……)

『何か言いましたか、少尉?』

「……何でもありませんよ、フランチェスカ主任」

 また口に出していたか。クロエは自分の粗忽さに嘆息すると、シートにもたれて空を見上げた。

 

         *        *

 

(すごい……)

 あれがGIGSの動きか。史上最速と思われる超高速域からの急減速。さらにそこからの自在な挙動。こうも極端に緩急を付けられれば、反応出来ないのも当然だった。

GIGSの性能だけではない。動作の正確さ、一瞬の判断の速さ、読みの深さ、何もかもが操者のプラン通りに進んでいたに違いない。

クロエ・エヴァンスと〈AGS‐0〉は全てにおいて他を圧している。哲夫は、目の前で繰り広げられた圧倒的な光景に息を飲んだ。いや、見惚れてしまったと言ってもよい。

これではミリオン社も勝負する気を失くすはずだ。〈ランパートV〉も確かに乗りやすくいい機体だが、性能に差がありすぎる。というより、そもそも設計思想からして違うのだ。

 そしてまた美しいこと……。

 まだ試作機だから正式なカラーリングではないだろうが、曲線を基調としたボディに光沢のある真黒が実に映える。ギリシャ彫刻のように均整のとれたマッシブなシルエット。そして背中に生えるのは威圧感すら与える四本の雄々しい尾。

 あれが、純粋に最強を追い求めた末に到達した、GIGSの完成形なのだ。

 哲夫は最早、これから自分が相手をしなければならないその敵に、感動するほかなくなっていた。

 

 哲夫がレスターに完膚なきまでにノされ、さらにクロードにもぐうの音も出ぬほど論破された翌日、哲夫は、シキシマ重工の新型機〈AGS‐0〉の模擬戦を見学に来ていた。

 別に、昨日のことがショックで自分の機体の機動実験をサボったわけではない。単にレスターに膝蹴りを入れられた〈ランパートV〉の修理と整備が遅れ、丸々時間が空いてしまったからだ。

 ミリオン社の怠慢もここまで来ると笑えるが、そもそも技師の人数が少ないのだ。それについてどうこう言ったところで作業が早くなるとも思えなかった。

「シモンさん、今の見てました?」

「いやぁ、見てたけど、もう何だかよくわかんないよねぇ。速すぎてさ」

「ですよね」

 管制室では、自分の娘の雄姿に感極まったクロード中佐が一人で騒いでいたが、彼以外の人間は一様に、芸術的ともいえるクロエの操縦に、声も出せずに見入っていた。部外者はもとより、シキシマ重工で〈ゼロ〉の開発に携わっていた技師でさえ、ここまでの出来とは思っていなかったと思われる。

 そんな中ただ一人、さも当然とでも言うように澄まし顔でいるのは、シキシマの開発主任、フランチェスカ・ルジェッリ。その傲岸とすら感じられる態度は確かにぞくりとするほど妖しく美しい。なるほど、あの怪物を作り上げるだけのことはあるという気がする。

 

「よお! お前らも来てたか!」

「大尉……」

 嫌になるほど快活な声は、レスターだった。実は管制室に入った瞬間、レスターがいることに気づいていた哲夫だったが、向こうがこちらに目もくれないので知らぬふりを決め込んでいた。とうとう見つかってしまったか。

「また僕の時みたいに、喧嘩を売るつもりだったんですね」

「まあな。ただ、昨日の今日だしな。流石にガードが固くてよ。見学止まりだった」

「というか、昨日のアレはおとがめなしだったんですか?」

「ああ、ロースト大佐は俺に甘いんだ」

 悪戯好きの子供のように悪びれもなく言う。

「で、だ。お前ら見ただろうアレ。どう思う」

「見ましたけど、どうって」

「勝てると思うか」

「無理でしょう」

 自分でも驚くほどの即答だった。とはいえそれが今の哲夫の偽らざる本心である。

「ほう、面白いな、お前。普通そこまではっきり言わんぞ。操者としての誇りがあるのなら」

「彼我の戦力差がわからない程素人じゃないつもりです。機体性能も操者の技術もあっちが上なら、勝ち目はない。誇りでその差が埋められるのなら別ですが」

 操者としての誇り……か。クロードに喝破されてから、今ではそれが何なのかよくわからない。だが、そうと認めてしまっても、不思議と不愉快ではなかった。

「まあ、敵を知り己を知れば、とも言うしな。この場合は逃げるに如かずってことになるんだろうが……そっちの兄ちゃんはどうだ? あんたも操者なんだろ」

「ああ、そうだな……ええと……」

「あんたなら、あれを相手にどう戦う?」

「んん……そうね……」

 シモンが考え込むような表情で固まっていると、突然、後ろから声が弾けた。

「そう! まさにそこが重要なのよ、シモン!」

「おお、アニーか、びっくりした。どこ行ってたの?」

「そんなことはどうでもいいわ。で、どうなの? あんたはあれに勝てるの?」

 アナスタシアは、頬を紅潮させ少し興奮気味にシモンに聞いた。どうも用事があって急いでいたらしく、息が切れている。

「勝てるかって言われてもなぁ。そもそもどうなったら勝ちなのかもわからないし……実際やってみないことには何とも」

「じゃあ実際やってみたら、条件次第では勝てるってこと!?」

「いや、そんな単純な問題じゃなくてだね、シチュエーションにもよるし……大尉もノグチ君も言ってやってよ。色々あるんだよ、GIGS戦は」

「俺も嬢ちゃんと同じこと聞きたいんだよな。例えばお前がノグチだったとしたら、とか」

「何で俺なんですか。でも俺も知りたいですよ。あれに勝つ方法があるのなら」

「いや、あの……だからね……」

「あー、もう! まだるっこしいわね! 勝てるの? 勝てないの?」

 ほとんど脅しをかけるように、アナスタシアはシモンに詰め寄っていた。その勢いに、あのレスターですらたじろいで見える。

「……そうだな、まあ……おれは、やりようによっては勝てると思うけど……」

「勝てる!? 勝てるのね!」

「まあ……まあ、速けりゃ強いってわけじゃないし……強けりゃ勝てるってわけでもないし……やり方次第ではどうにかなる……」

「『どうとでもなる』! あの程度の相手どうとでも! いいわね! そういうの好きよ」

「いやいやいや、そこまでは言ってな……」

「……ちょっと、それは聞き捨てならないですね」

 耳の中に氷柱を差し込まれたような冷え冷えとした声に恐る恐る振り向くと、フランチェスカ・ルジェッリが立っていた。感情を押し殺してはいるが、その眼には憤怒の影が見えた。

「あら、これはフランチェスカ局長。聞こえてしまいましたか」

「ええ、あれだけ下品に大声を上げていれば。ところでそちらの方、余程の腕をお持ちのようで。私の〈ゼロ〉を、どうとでもしてやるとか、なんとか」

「いや、そういう意味で言ったんじゃないんですよ、本当に……」

「ふふ、『ただ速いだけ』のGIGSなど、この男の敵ではありませんのよ。この男の『超絶技巧(ヴぃルトゥオーソ)』をもってすれば……」

「『ただ速いだけ』?」

 アナスタシアとフランチェスカの舌鋒の鋭さに、周りの空気は凍ってしまっている。だが哲夫は、アナスタシアの横顔に余裕の表情を見てとっていた。口の端が楽しげに上がっている。自分の思い通りに事が進んでいる、とでも言うような。

「……なるほど、そこまで言うのなら、試してみましょうか。本当に〈ゼロ〉が『速いだけ』のGIGSかどうか、そこの『超絶技巧』とやらと」

「ちょ、ちょっと主任! まずいですよ、〈ゼロ〉はもう一戦してるんですよ? この後再調整して、もう一度模擬戦だって……」

「オオハシ君は黙っていてください。……問題はありません。少し遊んでやるだけです」

「し、しかし、クロエ少尉にも結構な負荷が掛かっていますし……」

『私のことなら心配ありませんよ。構いません、やりましょう』

 無線から聞こえてきたのは、クロエの声だった。どうもこちらで揉めているのは向こうに筒抜けだったらしい。操者本人にそう言われてしまえば返す言葉はない。オオハシと呼ばれた男は、苦々しげな顔をして、最後の頼みとこの場の責任者であるクロード中佐に哀願の視線を送ったが、それは満面の笑みで却下された。

「いいんじゃない、やってみれば」

 いとも簡単にそう言う。

「ま、そこの彼、うちのクロエをけなすなんてなかなかいい度胸してるし、そこそこやれるんじゃない?〈ゼロ〉もいろんなタイプの操者と戦った方が参考になるでしょ」

「ええ、中佐。もっとも、〈ゼロ〉にかかれば『参考』にすらならないで終わるでしょうけれど」

「『クロエにかかれば』、ね」

 とんとん拍子に決まりつつある〈ゼロ〉との模擬戦に、シモンも流石に茫然としている。そんなシモンに、アナスタシアは勝ち誇ったように言い放つ。

「さ、そうと決まれば早速準備して頂戴、シモン。機体はもう火を入れていつでも動けるようにしてあるから」

「……お前、最初からそのつもりで」

「ふふ、思ってた以上にすんなりいったけどね。プライド高い技術者は扱いやすくていいわ」

 そう言うとアナスタシアはしたり顔でフランチェスカを見やる。敵愾心を剥き出しにした才媛は、おそらく嵌められたことに気付いていない。

「因みに、これはあんたの性能テストだから、そのつもりで。まあ勝てとは言わないけど、あの女の鼻をあかせるくらいのパフォーマンスは期待しているわ」

「だからどうなったら勝ちなのかがはっきりしないというのに」

「ああ、もうぐちぐちうるさいわね、乗れるの? 乗れないの?」

「乗るさ。乗るよ。でもこんな廻りくどいことしなきゃ乗れない男だと思われるのは癪なんだよ」

「はあ? じゃあどうすれば乗るのよ」

「だからね、俺は君が一言『乗れ』って言えば、それだけでいいんだ。いつでもどこでも、相手が誰であっても乗ろうと思ってるんだ」

「……じゃあ、『乗れ』!」

 アナスタシアは、シモンの言葉に不意を突かれたようだった。少しばかりはにかむように、一瞬言葉に詰まりながら、シモンの要請通り彼女は命を下した。

「よし、では乗ろう」

 そう、シモンは、普段と変わらぬ口調で答えた。

朝と変わらぬ眠たげな笑み、だらけた態度……。まるでこれから一服にでも行くような軽い足取りで、シモンは『戦場』へ足を運ぼうとしていた。

不意に、管制室から去りゆく彼の左目の下の黒子が目に入った。シモンと初めて会ったとき同じ身震いが哲夫を襲った。狂気にも似たあの「艶かしさ」。まるで幽霊を見た時のような得体の知れない寒気が、哲夫の背中に走る。

「……『岩窟王』のお手並み拝見だな」

 クロードがぽつりと呟いた。その言葉の意味もわからぬまま、哲夫は管制室の扉を出る彼のその細長く華奢な後姿を見送ったが、何故かこの光景を、ずっと以前にどこかで見たような気がしてならなかった。

 

     

         *       *

 

 

 誰にも、人生を変える一瞬というものが、確かにある。

 自分のこれまでの人生で起こったこと、出会ったもの全てが、その為に用意されていたのではないかと思わずにはいられない一瞬。

出来の良すぎる小説の複雑に張り巡らされた伏線全てが、ラストに向けて収束していくように、そこに人知を越えた何かの手の介在を感ぜずにはいられない一瞬。

あるものはそれを希望と捉えるだろうし、またあるものは、絶望と捉えるかもしれない。

しかし元来それは、誰の人生の、どの瞬間にもあるものなのだ。気付きさえすれば、本当は次の瞬間にも、訪れるかもしれないものなのだ。

 

そして、その彼の一生は――彼の奇跡のような超絶技巧(ヴィルトゥオーソ)は、ただただ誰かにとってのその一瞬であることに費やされた

彼は英雄ではない。栄光からも遠かった。勝者であるよりも、敗者である方が似合っていた。

だが、彼ほど「誰か」の心に痕を残した者はいなかった。彼自身は消えても、その痕跡は、その「誰か」の中に消えようもなく深々と残り続けた。その痕は確実にその「誰か」の人生を変えていく。

彼の姿は「あの人」に似ているのだと、誰かが言った。ああ、きっとそうだ。今となっては誰も知らないはずのあの人の横顔。長い長い坂道を、重い十字架を背負いながら登っていった「あの人」に、彼は少し似ている。

そう思わずにいられない瞬間が、確かにあった。

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