2♯シモン

 

「地球の重力は魂を引く」

 と言われる。

 第二宇宙速度で振り切ったと思っても、気付くと引き寄せられてしまっている。それが地球の重力。単に他の星よりも重力が強いというだけではない。地球に行ったことのある宇宙移民なら誰もが口にすることだが、地球というのはそもそも「重力の質が違う」のだ。

 同じ1Gでも、宇宙空間に浮かんでいる植民市の人口重力とは引き寄せるものが違う。まさしく人間の魂を捉えて離さない力が、地球にはある。

 現に多くの人間が宇宙に進出し、政治経済の中心が火星に移った現在、さして重要度の高くない惑星となっていた地球だが、人類の地球に対する愛着はまだ、根強く残っている。

 富裕層に属する人間の多くは地球に土地を持っているものだったし、航宙管理局のお偉方の中にも、引退した後地球に移り住んでしまう者が結構いるのである。

 地球の風土からは逃れたはずの宇宙移民たちなのに、各々の民族や文化の特色はかえってより濃厚になった。生まれも育ちも宇宙植民市で、地球に住みたいなどとは思ったこともない哲夫であっても、正月やお盆などの日本の風習にはごく自然に従っていたし、一人で地球を見上げていると、その青く神秘的な光に吸い込まれそうな気がしたものだった。

 人間というものは、自分の立ち位置を明確にさせるルーツを持たなければ、上下も左右もない宇宙空間では生きていけないのかもしれない。

 地球には、月や火星などといった、移民星とは全く違った存在感がある。それは、宇宙移民にとっては共通の思いであるのに違いない。 

ただし、それは、憬れや郷愁などというような愛着だけのものでは決してない。

 

 管理局に入りたての頃、研修で訪れて以来、何年かに一度は地球に降りている哲夫だが、地球の重力に慣れるのには毎回時間が掛かる。

 足を踏み出すたび、便器に腰を下ろすたび、ベッドに身を沈めるたび、地球の重力に身を預けようとすると、そのままどこまでも落ちていくような錯覚に襲われてしまう。

 慣れればどうということもなくなるのだが、何分にも降りてくるたびに不調なので、はっきり言って哲夫は地球という星が苦手だった。

 重力だけの問題ではない。

 濃密で多分に混じり気のある大気、予告もなくコロコロ変わる気候、地域によっては文明レベルで存在する格差、移動の不便さ……。

 いずれも、宇宙に存在する植民市にはない要素で、これらに対する不快感も、宇宙移民共通の認識であろう。

 地球という星は、人間をどうしようもなく惹きつける。それも、ともすると、呪縛とすら言えるような、強い強い力で。

 新年明けて間もなく、北アメリカ大陸の宇宙港に降り立った哲夫は、今回もまた眩暈のように襲ってくる地球環境の不快感に耐えていた。

 気温は低いが、日差しは強い。厚着をしてきたのは間違いだったろうか。インナーの脇の部分がじっとりと汗ばんでいくのが感じられ、哲夫はまず一つ、ため息をついた。

 

 大晦日と、明けて一月一日だけ実家に帰ることができたが、そこから先は完全に強行軍だった。地球に降りるのに丸二日かかることは覚悟していたものの、その間、哲夫に休む暇は与えられていなかった。

 ファーガソン課長の言った通り、連合軍次期主力GIGS選考トライアルへ参加するようにという通達が、本局から直接通知されはしたが、それは詳細と言うには余りにもぞんざいだった。申し訳程度に日程表があるのが関の山で、あと必要だと思われる個所も曖昧にぼかされているか、そもそも書かれていないかのどちらかである。

 まあ確かに、最新鋭GIGSは軍の最高機密だから、実際現地に赴くまでは詳細な情報は開示するべきではないのかもしれない。

 などと思っていると、今度は「熟読しておくこと」と、テスト機の詳細なデータが送られてきたりする。

 おそらくはテストで哲夫が搭乗する機体のものであるはずだが、こちらの方は度を超えて詳細で、哲夫が研修で学んだ範囲を大幅に越えて、技術者にしかわからないような専門用語が頻繁に登場する。明らかに操者の為のものではなく、仕様書を丸々コピーしたような文書であるが、テストパイロットであるからにはこれくらいは把握していないと話にならないということであろう。

 よって、哲夫の移動時間の大半はこれら文書の研究に費やされ、睡眠時間もまともに取ることができなかった。

 

 宇宙港から目的地のカールズバット基地までは、さらに飛行機を乗り継がなければならない。

 その離陸時刻まで間があったので、宇宙港で時間をつぶすことにした。

 とはいえカフェで軽食を摂り、売店でこまごまとした買い物を済ませてしまうと、やることなどなくなってしまう。宇宙港を出て観光をするには時間がなかったし、寝不足ではあるが眠る気にもならなかった。

 仕方なしに、時間までぼんやりと休憩室で携帯端末を眺める。

 そういえば、クリスマスの日、イスマイルが最後の方だけ録画してくれたマーシャンズ・カップの決勝戦が、動画フォルダに残っているのを忘れていた。

 年末からこっち、忙しかったからなぁ。哲夫は苦笑しながら、十分ほどの長さのファイルを開いた。

 

 試合の最終盤。不思議な静寂がフィールドを支配していた。

 それまで果敢に攻めていたハキームの〈ジェリコ〉が、湾刀をだらりと構えたまま動かない。

 対するジャンの〈ホワイトホース〉もまた、盾で半身を守りながら、直剣をまっすぐ〈ジェリコ〉に向け、微動だにしない。

 ゆっくりと、矢のつがえられた弦が張り詰めていくように、最後の瞬間へ向けて緊張感が高まっていく。

 哲夫にも、わかる。

 ジャンもハキームも、最後の瞬間に向けて心の整理をしている。もうすぐ彼らの戦いは終わる。全ては、その瞬間の為に。

 まるで別れを惜しむような対峙が数分続き、とうとう最後の時が来た。

 最初の一歩は、ほぼ同時。

 両者ともに迷わずトップスピードに乗る。

 青緑色の光漠が中間地点でぶつかり合い、そこからは足を止めての壮絶な乱打戦だった。

 〈ホワイトホース〉の盾が弾き飛ばされ、〈ジェリコ〉の左腕が千切れて落ちる。

 息もつかない、命の削り合い。

 その果てに、ついに〈ジェリコ〉の膝が落ちた。

 実際は落ちた、というより、ほんの少し態勢を整えるのが遅れただけだ。しかし、その隙を逃すジャンではなかった。

 次の瞬間、〈ホワイトホース〉の直剣が逆袈裟に振り上げられ、〈ジェリコ〉の頭部が飛んだ。

 頭部を失った〈ジェリコ〉が〈ホワイトホース〉の足元に倒れ伏し、戦いは終わった。

 試合時間、三一分一五秒。FGSの試合の中でも長引いた方だろう。

 

 ほう、と張り詰めていた息を吐き、天井を仰いだのは、哲夫ではなかった。

 いつの間にか哲夫の隣の席に座っていた、背の高い東洋系の男。隣から哲夫の携帯端末を盗み見、哲夫以上に入れ込んでしまっていたであろうその男が、ゆっくりと哲夫の方を向いた。

「や、どうも」

 にかっと笑って哲夫に話しかけた男は、三十歳ほどだろうか。高そうなスーツに身を包んではいるわりに、髪はボサボサで無精髭も汚い。決して身だしなみが整っているわけではないのだが、なぜかその姿に不自然さはない。

「いやぁ、すごかったねぇ、それ」

 怪訝な顔で軽く会釈するのが精一杯だった哲夫に対して、するりと距離を縮めてくる。馴れ馴れしくはあるが、不愉快さはない。と言うより、哲夫が不快感を抱くよりも早く、懐に飛び込まれてしまった感じだ。

「ところで、それ、何なの?」

 言葉を失っていた哲夫に、男は尋ねた。

「え? マーシャンズ・カップですよ。知らないで見てたんですか?」

「知らない。何、それ?」

「FGSですよ? クリスマスイブに中継されてたじゃないですか」

「ああ、これがFGSね。初めて見た」

 初めて! 

哲夫は唖然とした。FGSを全く見たことのない人間が太陽系にいるなんて。普通に生活しているだけでも、どこかしらから情報は入ってくるだろうに。

「GIGSは見たことあるんですよね?」

「勿論。商売道具だからね」

「関係者だったんですか? じゃあ何でFGS見たことないんですか?」

「何でと言われてもなぁ。見たことないものは仕方がないよ。FGSってのを知ったのも最近だよ」

 男はけろりと言う。

「まあ、ボクシングとか、プロレスみたいなもんか。そういうのって昔からやってるものなの?」

「僕が生まれる前からやってますよ。戦争中は中断してたけど、GIGSの性能も操縦技術も、FGSのお陰で発達したといっても過言では……」

「へぇ、そうなんだ」

 男は、哲夫の説明にはもう興味はないとでも言うように、哲夫の手に握られたままの携帯端末に目を落とした。

「あのさ」

 屈託なく、眩しそうに目を細めて笑いながら、男は言った。

「もう一回見せてくれる?」

 その笑顔に不意を突かれたように、気がつくと哲夫は男に端末を手渡してしまっていた。

 

「あの……何回見るんですか?」

 男が三回目にリピートボタンを押した時、うんざりしながら聞いてみたが、哲夫の言葉など全く耳に入っていない。男は一心不乱に携帯端末の画面で繰り広げられている戦いに注視し、それ以外のことなど意にも解していないようだった。

 よく考えてみれば、何故、見ず知らずの人間に自分の端末を預けているのか。しかし瞬き一つせず、目を細めて男の顔は恐ろしいほど真剣そのもので、あまり強く返してくれと言うのも憚られるような雰囲気があった。

「あの……」

 しかし流石にこれ以上リピートさせるわけにもいかない。哲夫が再度男に話しかけようとした時、唐突に端末が突き返された。

「あ……もういいんですか?」

 またしても不意を突かれて、思わずそう尋ねてしまった。

「うん。有難う。こんな見事な戦いには、なかなかお目にかかれないからね。最後まで、どちらが勝ってもおかしくなかったし……」

「? そんなことはないでしょう? 試合は終始ジャンが優勢でしたよ。あの幕切れも、ある意味予想通りでしたよ」

 そう言ってしまってから、哲夫は少し後悔した。相手はついさっきまで、FGSすら知らなかったのだった。

「ジャンってどっち?」

「……えっと、この、白い方です」

 ああ、もう、この際だ。最後まで付き合ってやろうじゃないか。哲夫は再び端末の再生ボタンを押し、懇切丁寧に解説してやることにした。

「ジャン・バルトークと、彼の〈ホワイト・ホース〉は現役最強ですよ。さっきのはマーシャンズ・カップっていって、太陽系全土の最強操者を決める大会だけど、その決勝戦ですら、はっきりいって横綱相撲でしたよ」

 いきなり饒舌になった哲夫に、へぇ、という顔で、男は言った。

「なるほどね。確かに、彼は強い。強かった。でもこの対戦相手の彼も、負けてなかったよ?」

「ハキーム・ザーヒルね。……まあマーシャンズの決勝に出てくるくらいだから、実力は現役の操者の中でもトップクラスですけど、ジャンの相手ではなかったですね。攻めを全部受け切られて、最後は、自滅みたいなものでしょう」

 自分でもどうかと思うくらい、舌が回った。もっとも、これくらいのことは少しでもFGSを観ている人間なら誰にでも言える。一般論だ。中継の後、解説者も似たようなことを言っていたし。

「この戦いって何分くらい続いてたの? 最後の方しか映ってなかったみたいだけど」

 哲夫の話の流れとは全く関係なく、男が聞いた。

「えっと……三〇分くらいですね。最初は三対三で始まって、開始一〇分くらいには他の操者が脱落して、この二人の一騎打ちになったんです」

「この……ハキーム? だっけ? は、ヒット・アンド・アウェイが得意なんだろ?」

 またしても哲夫の話とは関係のないところへ質問をしてきたが、男の指摘は的を射ていた。

「そうですけど……」

「で、彼はずっと攻め続けてたわけだ」

男が見た映像は試合の最終盤。ジャンとハキームとが、動かず、睨みあいをしているところから始まっていた。ハキームの猛攻のシーンを、男は見ていない。

「何で、わかるんですか?」

「そんなの、お互いの損耗度合いを見ればすぐわかるじゃないか。ほら、白い方は盾を中心とした左半身にダメージが集中してる。こっちの小さい方、ハキームだっけ? の方は、足回りがボロボロだ。守りに入っている白い方が、相手の足を止めようとしたんだけど、捉えきれなかったんだね」

 哲夫は、慌てて画面の中の二機のGIGSを凝視した。哲夫の携帯端末の画面は小さすぎて、男の指摘が本当かどうか、わかりづらい。そう見ようと思えば、そう見えないこともない。しかし言われなければ、絶対にわからない。

「小さい方が攻め続け、白い方が捌き続ける。でもそのうち攻め手が緩んでくる」

 それもその通りだった。男は続ける。

「白い方は最初から相手が攻め疲れるのを待っていた。小さい方のペースに合わせるべきじゃないと思ったんだろう」

 それは哲夫も同意見だった。たまらず口が出る。

「だから、ジャンの思惑通りに進んでいったんでしょ? 現にハキームはジャンにクリーンヒットを与えられなかったわけだし……」

「それは仕掛け」

「仕掛け?」

「そ。似たような攻めを繰り返す。段々相手は慣れてくる。対応される。それでも繰り返す。相手に自分の攻めのリズムを覚えこませるためさ」

 気がつくと、男の話に引き込まれていた。

「何のために?」

「最後の瞬間のために。全ては、最後の最後、相手が止めを刺しに来るその瞬間のための仕込みだよ」

 男がそう言ったので、哲夫は映像を二機の衝突直前で停止する。

「ここから……僕には追いつめられたハキームが自棄になって無謀な突撃をしたように見えたけど……」

 そう言って映像を進める。何度見ても同じように思える。二機がほぼ同時にスタートし、衝突する。

「むしろ、この時点で予定通りなのは、ハキーム? の方さ。ほら、白い方のが、ちょっとだけ出足が遅い。さっきと同じようにキレイに捌こうと思ったんだね」

「ちょっと……?」

 哲夫は動き始めのシーンを何度もリピートしてみたが、全く同時に動き出しているようにしか見えなかった。

「白い方が凄いのは、ハキームの変容に勘付いて、すぐに対応を変えたことだ」

「変容?」

 哲夫にはもう、男の言うことを鸚鵡返しにする以外、何も言えなかった。この男は、何者なのだ。というか、本当に全てわかって言っているのか。そのあたりの判断が、哲夫にはもうつかない。

「ハキームは、奥の手を隠していた。それが何かはわからないけど、白い方が対応を変えていなければ、間違いなく倒されていた。そういう手だよ。白い方はそれに気付いたから、真っ向からぶつかって斬り合うことにしたんだ。それで、勝負が分からなくなるところまで持って行った」

「はあ……」

 考えてみれば、男の言うことには何らの根拠もない。だが哲夫にはなぜか、男の声は妙な説得力をもって響いた。何より、男の言うことを念頭に置いてこのシーンを見ると、あまりにもしっくりきてしまうのだ。ジャンとハキームの表情までもが、見えるような気さえしてしまう。

――一瞬たりとも余裕なんて感じられなかった。ハキームの方もそうだったと思うが、まるで綱渡りだった――

 試合後のジャンのインタビューを思い出した。あの時はリップサービス交じりの優等生発言かと思っていたが、なるほど、正直な心情の吐露とも考えられる。

「ま、あとは我慢比べだ。どちらの集中が先に切れるか。思惑が外れてしまった分、ハキームの限界が先に来たかな」

 画面の向こうでは、男の言うとおり、ハキームの〈ジェリコ〉が先に膝を折り、趨勢が決定していた。

「……もしも、その、ハキームが奥の手を隠していたとして、ジャンは何故、それに気づいたんですか?」

 一応聞いてはみたが、何となく、男の答えはわかっているような気がした。

「さあ」

 やっぱり。

「勘じゃない? まあ、あの場にいる人間の気持ちなんて、そいつにしかわからないしねぇ」

そんなことはどうでもいいとばかりに、あっさりと言う。

「ま、この白い方が段違いに強いってのには異論ないけどね。実際、勝ったのはこっちだったわけだし」

そう言って、男は目を細めて微笑を浮かべると、天井に向けて大きな欠伸を放った。

 

 不思議な沈黙が、哲夫を襲った。

 携帯端末から完全に興味を失った男は、哲夫の隣に座ったまま、一体何を見ているのか、相変わらず目を細めている。

 後から思えば、もともと何らの面識もない相手なのだから、そのまま放っておいてもよかったはずなのだが、哲夫にはなぜか、その状況を放置しておく気にならなかった。

「あの……」

「ん?」

 つい、話しかけてしまった。

 男も、特に不快感も表わさず、返事をする。

「今度は何だい?」

「……いや、えっと……」

 つい声をかけてしまったが、特に話があるわけでもないことに気が付いて、哲夫はうろたえた。数秒の思案の後口をついたのは、

「も、もしかして、地球の方なんですか?」

 という、我ながらどうでもいい質問だった。

「ああ、そうだよ」

 しかしどうやら男は、どうでもいいとは思わなかったようだ。よくわかったね、と微笑みながら言う。

「生まれも育ちも、こっちでね。まあ、こっちっていっても、場所はここから、星の反対側あたりだけどね」

「今までずっと、地球に?」

「何年か地球を出てたこともあるけど、まあ、何というか、仕事で失敗してね。それからはずっとこっちだね」

 世間話でもするかのように、軽い口調で身の上話を始めた。

「最近、就職したんだよね。まあまだ仮契約らしいけど」

「へえ、それはおめでとうございます」

「これから初仕事なんだ。流石に緊張するよ」

 その言葉とは裏腹に、まるで緊張の感じられない、のんびりとした空気を醸し出す男に、哲夫も思わず頬を緩ませる。

「ああ、わかりますよ。僕も初仕事の時は緊張して、眠れませんでしたもん」

「だよねぇ。俺、ずっと引き籠ってたから、上手くできるか不安だよ」

「え? 引き籠ってたんですか?」

 相変わらず、不安さも深刻さも微塵も感じられないが、一点だけ、聞き捨てならない言葉を耳にして、哲夫は思わず聞き返してしまった。

「うん。つい最近まで」

 男も、別に大したことでもない、という感じで答える。

「八年ぐらいかな」

「八年……」

 初対面の相手に、そこまで話してもいいのか? 哲夫は、果たして笑って聞くべきか迷いながら、結局中途半端に口の端をゆがませるに止まった。

 その哲夫の微妙な心情など気にするそぶりすら見せず、男は話を続ける。

「俺としてはそのままでもよかったんだけど、まあ、何だ、無理やり引っ張り出されたというかいうかな」

 遠い目をして、そんなことを臆面もなく言う。男の年齢は、見た目から三十代前半くらいだろうから、二十代中頃からずっと引き籠っていたことになる。それが許されていたということはそこそこの富裕層の生まれなのだろうか。そう考えれば、確かに男が身につけているものはどれも上等だし、開けっ広げな雰囲気も、上流家庭に育ったが故の余裕に思えなくもない。

 大した不自由もなく奔放に生きてきたお坊ちゃんが、就職先で思わぬ挫折を味わい、そのショックか倦怠感かで引き籠っていたのを、危機感を抱いた家族やら親戚やらが何とかして外に出そうと、知り合いの社長に直談判して強引に就職させてしまった……。

 想像を逞しくすればそんな感じだろうか。まあそれはあくまでも想像だが、焦燥感も気負いもなく、周りに流されながらもマイペースを崩さない男の態度に、哲夫が好感を抱いていたのは確かだった。

「そうだったんですか。ちなみに、引き籠ってる間、何やってたんですか?」

 男の言葉に、哲夫も思わず笑顔で聞き返していた。おそらくこの男でなければ、こんなことは聞けない。引け目も皮肉も自嘲もなく、ただじんわりと相手の心胆に染み入るような男の声が、哲夫にその発言を許していた。

「ずっと本を読んでいた」

 男はやはり、当然のように答える。男の左目の下に、黒子を見つけた。涼しげな目尻の下に、ふ、とあるそれが、何か恐ろしく艶かしいものに見えてしまい、哲夫は同性にも関わらず、ぞくりとしたものを首筋に感じてしまった。

「ど、どんな本を読んでいたんです?」

 思わず口ごもり、視線を黒子から外して、哲夫は聞いた。

「いろいろだよ、とにかくいろいろ。二十世紀くらいまでの古典が多かったかなぁ。ま、でもとにかくいろいろ読んだよ」

 ポルノは読ませてもらえなかったけど、と小さく付け足して口の端で笑いながら鼻を掻く。その姿には、さっき感じた艶かしさなど微塵もなかった。

 この男は本当に、何者なのだろう。

 正体が掴めない、とでも言うのか。不意打ちのように相手の懐に入り込み、相手に消えようもない存在感を植え付けるのに、そのくせ印象がまったく一定しない。

(まるで……)

 幽霊とでも話をしているような……。

無論、幽霊やら霊魂やらといったものが実在することを、哲夫はそれほど信じてはいない。しかし冗談でも何でもなく、男との対話はこの世のものではない「何か」との交流であるように思えてしまう。そんな錯覚を起こさせる不思議な存在感が、男にはあった。

「あの、さっき、GIGSを商売道具って言ってましたけど、もしかしてあなた……」

 なかなか掴めない男の正体を、哲夫は探る気になっていた。ジャンとハキームの対決をあそこまで詳細に語れるのだから、GIGS関係者、それも、かなり最前線にいる人間であることは間違いない。しかしそうであるなら、何故FGSの存在を知らなかったのか。

 初対面の相手に、これほど突っ込んだことを聞くのは哲夫には初めてのことだったが、それでも聞かずにいられなかったのは、ひとえに、不可解に過ぎる男の、ある意味では魅力によるものであったろう。

「ああ、それは……」

 しかし、男の答えは、頭上からの女性の一言で遮られた。

「シモン!」

「あ、社長」

「何やってんの、そろそろ時間よ」

 哲夫が声の聞こえた方を見上げると、金髪の若い女が男と哲夫を見下ろしていた。

「何? 知り合い?」

 女は哲夫を見て言った。哲夫は思わず息をのんでいた。

(美人だ)

 年齢は哲夫と同じくらいだろうか。雪のように真っ白な肌に、すっと通った鼻筋、深い青色の瞳は北欧の美女の特徴を受け継ぎ、ややハスキーな声には若さを感じたが、同時に知性に裏打ちされた余裕も垣間見える。女優か、はたままたモデルとしてテレビに現れてもおかしくはない。服装が地味なスーツであったのは残念な限りだ。もう少し派手な格好であったら周囲の視線を一身に集めていたであろう。

「いや、初対面だけど……さっき友達になったんだ」

「友達って……すいません、この男、世間ずれしているというか何というか……空気の読めない男でして」

 男に「社長」と呼ばれた美人が哲夫の顔を覗き込み、話しかけてきた。男として当然の反応だと思うが、どうしようもなくドギマギしてしまう。「はあ、まあ」などと曖昧な会釈をして、視線を泳がせてしまう。

「空気が読めないとは失礼だなぁ。彼が虚ろな目で端末を覗き込んだまま身じろぎ一つしないもんだから、心配になって。話し相手になってたんだよ」

 そうだったのか。確かに寝不足の自覚はあったが、そんな廃人一歩手前みたいに見えていたとは、思いもしなかった。さっきまでの自分の姿を思い返して、うすら寒い気分になる。もっとも、男が自分の都合のいいように粉飾している可能性もあると言えばあるのだが。

「ああそう。まあ、そんなことはどうでもいいわ」

 心底呆れた、という声で女は言った。哲夫としては、美人に「そんなこと」と一蹴されてしまうのが少し寂しくもあった。友達だったことにしてしまえば、ひょっとしてもう少しこの美人とお近づきになれたのだろうか。

「そんなことより、そろそろ飛行機の時間なの。わかってる?」

「ああ、もうそんな時間か」

「そんな時間か、じゃないわよ! 十五分前までにはゲート近くに集合って言ってあったでしょ」

「そうだったねぇ。申し訳ない。でもまあ、まだ間に合うわけでしょ? 社長がここまで迎えに来てるくらいだから……」

「そういう問題じゃない!」

 ああ、この美人で有能そうな女社長も、この男のペースに嵌ってしまっている。この男はやはり、誰に対してもこうなのだろう。

「さあ、早く、行くわよ!」

「おう」

 一度大きく欠伸をして、男が立ち上がる。思っていた以上に背が高い。その男が、哲夫を見下ろしながら言った。

「いやぁ、いい暇つぶしになったよ。ありがとう」

「あ、いえ、こちらこそ、気を遣って頂いて」

「でもあれだよ、実際、少し寝た方がいいよ。君もこれから仕事なんだろう?」

「ああ、はい。そうですね。ま、飛行機の中ででも……」

 そう言った瞬間、自分もまた飛行機に乗らなければならないことに気付いた。とっさに腕時計を見る。やばい、あと十分もない。

「あれ、もしかして……」

「す、すいません! こっちも急がなきゃならないみたいです!」

 スーツケースの取手を乱暴に引っ掴むと、早歩きでゲートまでの通路を急ぐ。すると、男と女社長が同じように、哲夫のやや後ろを歩いてくる。

「え? あれ、どういう……」

「そりゃあ、おんなじ便に乗るからだろう」

 男が、早歩きになりながらも不思議とのんびりとした口調で言った。

「おかしな巡り合わせもあるものね。ひょっとすると、目的地も同じかしら」

 美人の女社長が、男に対する厳しい口調とは裏腹に、愉快そうに哲夫に話しかける。男と顔を見合わせて楽しげに笑う彼女は、何だか、この先に待つ楽しみに胸を躍らせる少女のようにも見えた。

「俺の名は……」

 哲夫の横を歩きながら、男は言った。

「シモン。シモン……」

「バレル」

 咄嗟に女社長が付け足した。

「そう、シモン・バレル」

 君は、と促されて、哲夫は初めて、自己紹介をしていないことに気がついた。もちろん初対面であることは自覚していたが、男があまりにも自然に懐に入りこんでくるので、お互いの素性を確認し合うという当然の儀礼のないことにも、疑問を感じなかったのだ。

「僕は、野口哲夫です。航宙管理局に務めているんですが……」

「ああ、やっぱり……」

 今度は女社長の方が、したり顔でうなずいた。

「失礼。私はアナスタシア・ザイツェフ。そこのシモンの雇い主だけど……」

 そう言いながら、アナスタシアは哲夫に名刺を渡す。アルファベットとキエフ文字の並んだシンプルな紙面に、彼女の名前とともに、「ベリョースカ」という聞きなれない文字が読み取れた。これがおそらく社名なのだろう。

「参加者名簿になぜか一人だけいた管理局の人間は、きっとあなたね。ね、これから、軍の合同トライアルに参加するんでしょう?」

「え? 何で……」

「鈍いなぁ、ノグチ君。寝不足で頭が回らないか? 俺たちもそれに参加するんだよ」

「それもあなたのサポートとしてね……っと、どうやら間に合ったわね」

 あまりの急展開に、連日の徹夜に強行軍が重なりまともな思考が働くわけもなく、ただ唖然として二人の顔を見比べるだけの哲夫を余所に、一行は目的の発着場に到着していた。

 ゲートにチケットを通し、飛行機に乗り込む。先頭を歩いていたアナスタシアに、シモンが言った。

「随分ご機嫌だね、アニー」

「神様も中々粋なお計らいをしてくれるものだと思って。勘だけど、きっと今回の仕事は面白くなるわ」

 そう言ってはしゃぐ姿を見ると、女優やモデルのような泰然とした美人というより、無邪気な少女、という風に見えてくる。

 哲夫がアナスタシアの姿に見惚れていると、前を歩いていたシモンが振り返る。

「だってさ。ノグチ君」

「はは、だといいですね」

「惚れた?」

「ええ、へへ、まあ……って、何の話ですか?」

「美人でしょ、彼女」

 そういうことをさらりと言う。

「でも気をつけた方がいいよ」

「え?」

「彼女とはまだ付き合い浅いけど、なんというか、ほとんど嵐みたいな女だから」

「嵐、ですか?」

「うん、いろんなものを巻き込んで突き進んでいくんだ。言っとくけど、俺も被害者だからね」

 巻き込まれている割には、あんたは随分マイペースだな。哲夫から見れば、むしろ彼女のほうがシモンに振り回されているように思える。

 ま、すぐにわかるよ。そう言ってシモンはタラップの途上で大きく欠伸をした。

「いい天気だなあ……」

 シモンの言うとおり、空を見上げれば雲ひとつない。鮮やかな深青に太陽の日差しが眩しく、哲夫は危うく眩暈を起こしかけた。

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