第一話 『発明の定義』

 

 

それは、夕方がなかなか終わらない夜の話だ。蒸し暑くなり始める今のような季節には、そんな夜は特に望みもしなくてもコンスタントにやってくる。

 そして、僕はだいたいそういう曖昧で、思いのほか早く仕事から解放された幸福な日は、一杯だけウイスキーを飲みに駅前から少し離れたバーに立ち寄る事にしているのだ。

 

 そのバーは何時も空いている。正確には僕が訪れる時間帯は何時もお客は僕一人だという事。そりゃそうだ、まだ時計は六時を回ったばかりで、店の外にはこの季節ならば、あとしばらくの時間、夕方のまるでウイスキーのような空が広がっているはずなのだ。当然このバーも開店したばかりで、従って僕がここに寄ろうと思う条件が満たされた日はだいたい僕が最初のお客になり、加えて僕はここでウイスキーを一杯しか飲まないから、殆どの場合二番目のお客が来る前に会計を済まして出て行くことが多くなるのだ。

 そんなふうにして、僕は何時も一人で飲める時間を求めてここに来ているのだ、そして、今日もそうなるはずだったし、そうでないと此処に来る意味は無い。

だから今日も、そうなるだろうと思ったから、夕方の色に染まり始めた世界から一気に雑居ビルの地下に位置する万年夜のこの店に入ってきたというのに今日はどうやら先客がいる。しかも、そいつときたら何時も僕が座っている位置を堂々と占領して、まるで僕の真似でもしているようにご丁寧にオンザロックのウイスキーを飲んでいるのだ。

 僕は、何となく気分が削がれて、このまま店を出て行こうかとも思ってしまう。けれども扉を開けて店に入ってしまった以上、ここで踵を返すのも気不味いと思い直し、しぶしぶながら先客から二つ席を隔てたポジションの椅子に座る。

 

 「本日はいかがいたしますか?」バーテンダーは僕より五歳ぐらい年上の眼鏡の似合う細面の男性だ。酒の知識に精通していて、そのことでいつも感心させられる。

 「そうですね・・・今日はグレンモーレンジをロックで。」と僕はバーテンダーに注文し終えると何時ものように彼のしぐさに見いってしまう。「既存のグレンモーレンジ10年が廃盤になって、グレンモーレンジオリジナルが発売になったのはご存知ですか?」彼はほのかにライトアップされたウイスキー棚の上にあるオレンジ色のラベルのついたボトルをさし示す「ええ、貴重な原酒が使われているそうですね、それでお願いします。」

彼のグラスやボトルを選んだり、氷やウイスキーを注ぐ動作は芸術的と言えるくらい美しくて無駄が無い、完成さた動作は見ているだけで心躍るものなのだけれど、残念ながら本日は僕のそんなささやかな楽しみさえも、どうやらままならないらしい。一つ隔てた席に座っていたはずのお客がいつの間にか僕の隣の席に移動しているのだ。

 

 「えらく飲みやすいお酒を頼むんですね。」隣の客はそう言った。僕は何時も使っている席を取られた上に、その口ぶりとせっかくのバーテンダーによるショーの鑑賞を中断された事で苛立っていた。

 「本場のスコットランドじゃこれがシングルモルトの中で一番人気なんですよ。ちなみにブレンデットではフェイマスグラウスがNO1だそうです。」

 「詳しいのね。」相手が本当に感心したように言うので、何か嫌みの一つでも言ってやるつもりだったのを中断し、相手の方に振り向くと、これが以外に僕の好きなタイプの女性だったものだから、どんな内容にせよ話しかけられたことが嬉しくなってしまって「いえいえ、あなたの方こそお酒に詳しそうじゃないですか、あなたは今、何を?」と一応相手を立てるような言い方をしてしまう。

「ワイルドターキー8年よ、8年といってもバーボンの熟成年数はスコッチのそれとは訳が違うの。」

 「僕もバーボンは好きです。でも一番好きなのはやっぱり、アイラ島のモルトかな。」

 

 「お待たせいたしました。」

 差し出されたグラスにはやっと器に収まるくらいの大きくて丸い氷が琥珀色のウイスキーに浮かんでいる。手に取りウィスキーの芳香を楽しんでいると、氷が乾いた音を立てた。

 「まるで、この星みたいね。冷たい冷たい氷の世界。外はこんなにも甘美な美酒で溢れているのに……」彼女はグラスを目の前の位置に掲げて、その丸い氷を眺めている。彼女の瞳にウイスキーの色が反射して、なんだか外国人のように見える。そういえばこのバー自体が西洋のインテリアで内装がコーディネートされているから、僕だけがまるで異国で一人浮いている異邦人のように思えてくる。

 「ロマンチックな事を言いますね。」

 「女はみんなロマンチストなのよ。」

 「男だってみんなロマンチストなんですよ。」

 「そうかもしれないわね。」

 僕は、運ばれてきたウイスキーに最初の一口をつける。まだ氷が殆ど解ける前の薄められていない荒々しいウイスキーの味が喉を通過してゆく。

 「氷の世界とは上手く言った物ですね、本当にこの社会は氷の世界ですよ、でも今日はちょっと気分がいいな、あなたみたいな面白い人に会えて。」僕にしてはうまく出来すぎているほどの会話の流れだ、初対面の女性とここまで自然に話せるなんて、なかなか僕も隅に置けない男だなと自分で自分をおだててしまう。しかしそんな思い上がりが災いしたのだろうか、「あんまり誤解しないで欲しいわ、」どうやら油断は大敵らしい。

無理も無い僕は生まれてこのかた女性と付き合ったことも無いのだ、このハンデをどうやって隠し通すか、それとも開き直って相手の母性本能を挑発してみようか?

 「口説いてるんじゃないですよ、そういうつもりは無いんです。ただ一つだけ頼みごとをしたいんだ。」

 「恋人にはならないし、ベットにも入らないわよ。」

 彼女はワイルドターキーを飲み干して、ジョンジェムソンの12年を注文した。

 「何だ、あなただって、ああ言っていた割には僕より飲みやすいもの頼むんですね。」

 彼女は空になったワイルドターキーのグラスを回して溶け残った氷の滑る様子をぼんやりと眺めている。「……疲れているのよ、今日は色々な事があったわ。」

 「色々って?」バーテンダーの働く仕草を観察する余裕が僕には既に存在しない。

 「頼みごとがあったんじゃないの?くれぐれも言っとくけれど、私は飲んでるからってホイホイ付いていったり……」

 「大丈夫、これはドラマじゃないですから、そんなに簡単に上手く話が進むはすは無いんですよ、そういうふうに作られているんです。そう、僕が頼みたいのは最近僕が発明したものの品評をして欲しい、それだけなんですよ。」

 「発明したものってここに持ってきてあるの?さっきも言ったけれど、どこかに連れまわされるのはごめんだわ。」

 「大丈夫、発明したのは「物」じゃなくて「事」ですから、何ていうかな存在とか認識とかって言えばいいのかな、まあ、どっちにしろ何時でも何処でも取り出せるものだから問題ありません、無論今この場所でもね。」

 「詩人なのね・・・それならいいわ、続けてちょうだい。」

 何とか同意は得られた。彼女はああ言っているが、僕にとってはこれくらいの事だって、かなり凄い事なのだ、たぶん宝くじで十万が当たるくらい凄い事。それくらい僕は家族以外の女性と隔てられた人生を送ってきているのだし、最近はそれが学生時代より特に顕著だった。さて、鼓動の高鳴りが鬱陶しい、下心など元々持つべき情況ではないというのに、噛まずに喋る自信さえ僕には無いのだ、何とか落ち着きを得るためにウイスキーで喉を湿らせる。さて、話さなければいけない。相手を退屈させてはいけないのだ。


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上の写真は右側からジョンジェムソン12年(アイリッシュウイスキー)、ジョニーウォーカー赤ラベル(ブレンデットスコッチウイスキー)、フェイマスグラウス(ブレンデットスコッチウイスキー)、グレンも―レンジ10年(シングルモルトスコッチウイスキー)、ワイルドターキー8年(バーボンウイスキー)、IWハーパー(バーボンウイスキー)と続く。本編にもある通り、バーボンはスコッチとは異なる材料、製法で作られる。特に熟成庫はバーボンであればケンタッキー州の乾燥し寒暖の差も激しい気候の中、ラック式に高く積まれたトタン張りのものであるから、スコッチによくあるような一年中冷涼、多湿で低層で石作りであるスコッチの熟成庫と比べ、樽の中と外の呼吸は多くなり、その分蒸発して消えてしまう部分(天使の分け前と呼ばれる)も多いが、そのぶん熟成も急ピッチで進み、短い期間で重厚な味わいに変化する。ちなみに年数の表記の無いバーボンウイスキーの多くが4年熟成のものである。何故ならば4年を経過せずにボトリングしたものは年数の表記が米国の法律で義務づけられているからだ。

 

 「うん、ありがとう。それじゃ早速始めましょう。例えばの話です、あなたはここが氷の世界だってさっき言ってましたけど、僕も本当にそうだと思います。氷の世界だから寒くて冷たくてしょうがない、だからみんな隣に誰か置いといて暖め合おうとするんだと思うんです。」女性と話すときは相手の意見に共感してあげる事が大切だと、何かの本で読んだ気がする。 「隣って、私は彼方と暖めあおうだなんて思ってないわよ。」

 「いやいや、話は最後まで聞いてから判断してください、それでもってこの発明の良し悪しを判断してくれれば嬉しいな。まあ、さっきの話は置いといて、ここからは脳ミソの話をします。脳ミソってのは実はニューロンっていう小さな神経細胞の集まりで、その細胞の中を電気が走る事で、人はまるで電子回路のそれのように物を感じてるわけなんですが、例えば僕もそうだったんだけれども、ウイスキーを飲み始めた頃は日本の安いブレンデットばかり飲んでいたものだから、初めてスコッチを飲んだ時は、それがそんなに高くないジョニ赤だったけれども、ものすごくおいしいなって思ったんです。でも最近はもっと舌が肥えてしまったから、ジョニ赤を飲んでもあの頃ほどの感動は無いですし・・・」

彼女の眠たそうな瞼。一方的に話してしまったのが悪いのか、それとも単なる飲み過ぎか?

「そうだ、食べ物で言うともっと簡単で、確かに北海道でカニを食べるとすごくおいしいけれども、丸一日何も食べずに酷い空腹に襲われている時に食べたとしたら、それが本当の蟹じゃなくて只のカニカマだったとしても、本当のカニ以上においしく感じるということは有り得るわけです。そしてこの時、脳ミソの中にはカニカマも本当の蟹と同じくらいに「すごく旨い」という信号が流れているわけです。つまり脳ミソにとってはこの時、本当の蟹もカニカマも大差のない電気信号で扱われ、殆ど同じようなもとして扱われていることになる。

 ここで、さっきの話を思い出してみて欲しいのですが、氷の世界で人は絶えず寒さから逃れるために隣に誰かを置いて抱き合って温めあおうと考えている。それがもし恋人だったら最高だし、そのとき脳ミソの中には「とてつもなく幸せだ」と感じる電気信号が流れているはずなんです。でも僕には白状してしまえば恋人が居ないし、あなたも僕の恋人にはならないって言う。でも、考えてみて欲しいんです、カニカマにだって条件さえ整えてやれば、蟹と同じ電気信号を脳ミソの中に走らせることが出来るのだから、恋人じゃない、恋人の代わり・・・つまり偽物にだって、条件さえ整えてやれば、恋人との交流と同じだけの電気信号を脳ミソの中に流すだけの力はあるってことを。」

 

 結局、一人で長話をしてしまったため喉が渇きグラスを傾けた、潤いを求めた口の中には丸い氷が溶け出して飲み頃になった思わずほっとするようなウイスキーの味が広がり僕は文字通り酔いしれた。まもなくして彼女の新しいウイスキーもカウンターに差し出されれ、二人ともしばしの間ウイスキーとの対話に集中する。

 

「一体、君は何を言いたいの?結局発明ってなんなのよ。」とそう彼女が口を開いたのは僕が発明の内容を話した後、互いにウイスキーに口をつけ、沈黙が三分を超えたほどのところだった。

 「そう、僕の発明は、その『恋人の代わり』って奴です、言ってしまえば『恋人代理』。でもこんな呼び方じゃ、なかなかお客さんが付いてくれないからね、だから僕はこの発明にこんな名前をつけたんだ。」しかし、ぼくはその後に言おうとした言葉を口に出す事はしなかった。何となくそんな気分にならなかったのだ。

 

 けれども、今考えれば、それが『メイドさん』の始まりだった。

 

 彼女は僕の話が終わると、ジェムソンを一気に煽って、IWハーパーをショットグラスで2杯頼んだ。

 「この場には合わない、面白い話を聞かせてくれたお礼、今日は変な人とばかり会って気が狂いそうだわ。」彼女は笑って言う。

 僕等はハーパーのグラスで乾杯しそれを一気に飲み干した。

店を出ると既にそこでも夜の支配する街が出来上がっている。「駅まで送っていって」と彼女は言った。付いていくのは我慢ならないらしいが、ついてこさせる事には何の抵抗も無いのか、それとも酔いすぎているのか、まあ、何にしろこんな風に女性と歩く機会が多ければ僕も馬鹿なことは考えたりしないで済んだだろうに……

 

地下鉄の駅に向かうため、JRの駅前の脂っこいネオンを光らせる繁華街を通り過ぎる辺りまで来た時だった、彼女は閉店準備中のペットショップの前で電気ショックを受けた動物のように急に立ちすくんだ。

「あれを見て。」彼女が指差した先には二匹のオウムの入った鳥篭がある。「オウムがどうかしたの?」

「つがいかしら?」

「さあ、でもつがいでないと少々可愛そうですね。」

「そうかしら、嫌な異性にまとわりつかれるより、一生異性なんて知らずに暮らす方が幸せかもしれないわ。」彼女の表情が曇ってゆく、今日は色々なことがあったと言っていたが、今の話と関係があるとすれば、男にでも振られたのだろうか。それならそれで、悪くはない、上手くすれば僕も一人身から脱却できるかもしれない。

しかし、僕の期待に反し時間がたつにつれ彼女の表情の曇り方は少しづつ変化してゆく、それは不安や悲しみによって作り出されるそれではどうやらないらしい、そうもっと根本的な、恐怖とか吐き気とかそういうものに耐える感じの表情だ。まあ、それならそれで結構、恐怖や不安は上手くすれば恋愛感情の引き金として作用するのだ。恋人たちはつり橋やお化け屋敷で受ける恐怖の鼓動と相手へのときめきに依る鼓動の高鳴りを区別できないのだ。だからそれらのものが存在する付近である渓谷や遊園地の駐車場では、屋外での性行為が他の地域よりも多く行われているらしい。

 

「今日あれに、私の知り合いが殺されたらしいのよ。」

少し警戒はしていたものの、予想を上回る唐突な話の展開に僕の計画は確実に狂い、戸惑が心を支配してしまう。こちらが不安になっては元も子もない。ここは冷静に所詮酔っぱらい戯言だと適当に割り切って話に乗ってみることにしよう、僕自身酒は大好きだから酔った人間のあしらい方は心得ているつもりだ「殺されたらしいって?」

「実際に彼が死んだところは見てないわ、でも多分死んでしまったでしょうね。」

「どんな風に殺されたの?」

「殺し方なんて、問題じゃないわ。ただいえるのは、あの種には人を殺す個体がいるって事よ。気をつけたほうがいいわ。」

「そんなこと言ったら、ライオンだって、犬だって、亀だって、サルモネラ菌だって、それに人間という種にだって、人を殺す個体とそうでない個体が居ますよ。」

「だから、気をつけて、あなたの言う『恋人代理』の中にも、人を殺す個体はいるかもしれない。」彼女はだいぶおかしくなっているらしい、家まで送っていった方がいいだろうか?でも、そんな事を提案すれば再び怒り出すのだろう、僕が彼女に投げかける次の一言をどうしようかと自問自答をしていると、彼女は何事も無かったかのようにスタスタと歩き始める。

 

「大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫。今日はありがとう、駅が近いからもういいわ。」

「そうですか、じゃあここでお別れです。」

「さようなら。」

「さようなら。」

彼女は横断歩道を渡り地下鉄の入り口に吸い込まれていった。

電話番号もメールアドレスも聞けなかったが特に後悔は残らなかった。実は別れ際に挨拶したとき僕は見てしまったのだ、彼女の胸元にはキスマークがついていた、そんなものがあるのに胸元の開いた服装をしているだなんて無神経すぎる。それに僕が彼女を追わない理由はそれだけではない、確かに彼女は美人であったけれども、僕が思うに彼女は僕の中の女性というものの範疇から若干ずれているらしいのだ。

 

そして酷く不幸な事にこの世の女性の殆どが、どうやら僕のそれに当てはまってしまうようなのである。

 

続く

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